それでもまだ戦後と云う言葉が生々しかった当時は、周囲には緑があふれていた。旧庄屋さんの家には大きな緑と巨大な常葉木があったことを覚えている。当時は未だ玉川上水の水も迸るように流れていた。 幼稚園のころ井の頭線の線路に続く斜面の藪の中で遊んでいて、母親に怒られた記憶。
ずっと後になってあの幼稚園にいたって云う女の子と知り合うことがあった。幼い頃の思い出を訪ねてデートしようと約束したものの、果たせぬまま終わってしまった。あの常葉木が未だあるかどうか、一緒に見に行ってみたかった。
奥多摩のどこかにキャンプに行った記憶は長く残って私を山に誘った。とっても美人だった幼稚園の先生の記憶。そして小学校に上がってしばらくして神戸へと移った。 なぜか高井戸の小学校の記憶は半年あるはずなのにほとんどないのは不思議だ。
住んだ所の直ぐ近くの山は既に宅地開発で造成されていたが、オリンピック後の一時的不況のためか、しばらくの間更地のまま放置されていた。一部にはわき水が出て葦の生い茂る沼と小川があり、僕たちの格好の遊び場となった。
毎日のように六甲山を見ていて山が好きになったのだろうか。それとも更に幼い頃よりの未知なる物へのあこがれか。
向こう隣の家には大きな楠が3本あり家屋はその木の陰に隠れるようにたっていた。その家には1つ下の美しい少女が住んでいた。一度学校でお兄ちゃん〜と呼びかけられた嬉しいような恥ずかしいような思い出が残っている。あの娘ももう良い小母さんになっているのかな?
中学年の頃、海よりの第二阪神の上に、阪神高速が出来た。茸状の不安定な形状は見るからに倒れそうな気がした。あれは思い出す度に、倒れそうなと思った記憶がずっと出てくるほど強い印象だったが、果たせるかなこの前の震災では本当に倒れてしまった。
高校になると学校の窓から丹沢の山がよく見えた。左足に弱いが障害があった私は、山岳部などスポーツをやらなかったのだが、山岳部落ちこぼれの友と丹沢に行ったりした。当時は丹沢が唯一現実的な山で奥秩父や八ヶ岳はあこがれの山であった。
冬の空気が澄んだ日は、犬の散歩を兼ねて家から30分ほどの太平山に良く行った。丹沢や奥秩父、伊豆や日光の山、遠くの山に登ることは出来なかったので山岳遠望を楽しんだ。
しかし高学年に移行するに従い、人数の多さとそれに伴う管理的な側面が多くなり、何か山に行くと言うより団体生活をすることが目的のようで、次第に気軽な仲間と自分の行きたい山に行くことが主になった。原邦夫くんとはこのころから黒部源流、朝日など行動をともにした物だった。
とは言ってもこのグループで得た物は大きかった。一般的な山ならどこでも行けるだけのものを全て得ることが出来た。また先輩のなかで稲住氏や増田氏には初歩ながら沢登りや冬山を教えて頂き、後につながるきっかけとなった。
そう言えばこのグループの中でも幼稚園が一緒の女の子がいた。こちらは別に何かあった訳じゃなかったが。
ただスキーには良く行き、一応どんなところでも滑れるようになったのは今から見れば後につながった。やはりテレマークにしろアルペンにしろスキーはそこそこ滑れなくっちゃね。良く仲間達と野沢温泉のコース外を滑りに行ったものだった。
山下喜一郎氏の全国山スキーガイドを購入し、山スキーにあこがれ、スキー仲間と八甲田、岩木山プラス弘前の花見ツアーにゲレンデの道具で行ったのがこのころ。素晴らしかったが、所詮スキー仲間では後が続かない。
そのうち2年連続足を痛め、山から撤退に近い状況になった。ここまでが鈴蘭山の会に入る前のお話である。